星崎の里めぐり
名古屋市のホームページから「星崎の里めぐり」を参考に南区の史蹟散策をしました。
星崎の里散策マップ ⇒「hosizaki_map.JPG」をダウンロード
1日コースですが、ゆっくりと2日かけて散策しました。
<コース順路>(参考)
(1)星宮社→(2)善住寺→(3)星崎城跡→(4)石神社→(5)光照寺百観音→(6)鹿島稲荷社→(7)永井荷風追慕碑→(8)永井星渚出生地→(9)牛毛神社→(10)旧鳴尾学校舎→(11)喚続地蔵→(12)喚続神社→(13)福井八左衛門の供養塔→(14)大江川湊跡 本星崎町バス停を出発して喚続神社や大江川湊跡をめぐる、約5.2キロメートルの散策路です。
「昔は田んぼが果てしなく広がり、その中に民家や木立がぽつりぽつり建つといった長閑な風景であったようですね。
大生校区は土豪、加藤又兵衛勝貞によって築かれた新田で、現在もその名を西又兵ヱ町と東又兵ヱ町に残しています。
東は1715(正徳5)年に完成した又兵衛古新田、西は1749(寛延2)年に開かれた又兵衛新田です。そして環状線の南側は、庄屋だった中村弥次右衛門が1725(享保10)年に開墾した水袋新田、弥次右衛門新田です。
当時このあたりは稲作だけでなく塩作りも盛んで、かつてはここから信州などに塩が運ばれていました。
港東通と大江川緑地に挟まれ、北頭、中割、堤起、神松町一帯に広がり、この東には弥次右衛門新田がありました。
宝生新田は寛政五年(一七九三)、水袋新田の西側の港東通から大江川緑地に干拓され、ほぼ中央を南北に知多街道が通っています」。
その後、戦争が激しくなると一時的に工業生産を主体とする地域となったが、都市化の波に押されるように宝生団地・北頭団地・中割住宅・弥次ヱ荘などが建ち並び、住宅街へと変貌を遂げて現代となりました。
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【星宮社】
創始は舒明天皇のころ(629年から641年)で、星崎城築城のときにこの地に移されたと言われています。かつては星崎の岬の最南端に位置し、里人のともす常夜燈が灯台の役目を果たしたと伝えられています。
境内社のうち、上・下知我麻(ちかま)神社は宮簀媛命(みやずひめの
みこと)の父・母を祭神とし、現在熱田神宮内に祀られている両社もかつてはここに祀られていたと言われています。
また、ここでは伊奈突智老翁(いなづちのおじ)が祀られてい ます。縁起によると、この地に塩づくりを教えた人であるとのことです。
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【善住寺】
慶安4年(1651)に浄土宗に改宗し、「善住寺」と改称しました。そのとき、建中寺の末寺となりました。
寄棟造棧瓦葺きの本堂と表門は、水袋水田や弥次衛水田を開拓した本地村庄屋中村弥次右衛門によって享保18年(1733)に再建されたと伝えられています。
境内には、古木の「愛染椿」や「桑子地蔵」などがあります。善住寺の六地蔵今から300年前この地方では養蚕が盛んだつた。幼子を失った母は、桑畑で涙を流し、一つ積んでは父の為、二つ積んでは母の為、三っ積んでは古里の、兄弟わが身と回向して---と口づさみながら我が子の菩提を弔ったということである。
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【星崎城跡】
城の本丸は、現在の笠寺小学校の場所にありました。
東西が約47メートル、南北が約61メートルあったといわれており、城の周りには堀が掘られていました。
また、二の丸、三の丸、大手門は、校門南側の住宅地一帯に位置していました。
城主は織田、今川の勢力消長により次々と交代し、桶狭間合戦の後は、織田側の岡田直教が居城していました。
天正16年(1588)、山口重政が城主のときに廃城となりました。
名鉄星崎駅西に、星崎ういろうの店です。
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【石神社】
石を御神体とした神社で、歯痛、神経痛に霊験があるといわれています。
お礼にシャモジをお供えしたことから、「オシャモジ様」と呼ばれました。
神社西側の道は、かつて笠寺方面と知多半島を結ぶ重要な
街道で、知多郡道、知多街道と呼ばれていました。
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【光照寺】
慶安4年(1651)に浄土宗に改宗し、「光照寺」と改称しました。そのとき、建中寺の末寺となりました。尾張の有力な武士だった山田次郎重忠が創建した、と寺伝に残されています。
寺の東のお堂には数多くの石仏が並び、「百観音」と呼ばれています。かつては、知多郡道を往来する人の休息所になっていたと伝えられています。
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【鹿島稲荷社】
天白川の砂州が発達してできた土地に建っています。昔、この地は「鹿の島」と呼ばれていました。
「狐の化身の久太夫の妻が、正体を子どもに見られ、姿を消す前に恩返しに一晩で田植えをし、家を出ていった。その年、久太夫の
田だけ豊かに実った。」という伝説が残っています。そのため、「久太稲荷」とも呼ばれています。
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【西来寺】
西来寺の境内には、永井荷風の「人生の真相は、寂寞の底に沈んで初めて之を見るであろう」という言葉が刻まれた碑があります。
堀口大学が揮毫し、昭和50年に建てられました。
「人生の真相は、寂箕の底に沈んで・初めて之を見るのであろう」という荷風の言葉が、堀口大学揮毫で刻まれている。
西来寺南の永井家の屋敷跡に市教委の高札「永井星渚宅址址」が立っている。
星渚は荷風の先祖で、野にあって尾張の儒学者として活躍した人だそうです。
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【永井星渚出生地】
西来寺と道路を隔てて南側に、永井星渚の屋敷跡があります。
星渚は荷風の先祖で、徂徠派の儒学者として、野にあって尾張の儒学者として活躍しました。
門下に儒者の伊藤両村などを出しています。
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【牛毛神社】
牛毛は、本地、南野、荒井などとともに、天白川の砂州が発達し、その上にできた集落です。
神社は天白川(右岸)堤防上にあり、創建は太閤検地(1582から95)より以前と推定されます。
祭神は須佐之男命です。境内には、明和6年(1769)に奉納された手洗い鉢、庚申塚の碑、ムクノキの大木があります。
江戸時代「牛毛と荒井は二村なり、文化年間より、牛毛・新井と呼ぶ」とあり、明治九年まで牛毛荒井村とある。
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【旧鳴尾学校舎】(名古屋最古の鳴尾小学校あり)
明治4年(1871)の廃藩置県のときに、名古屋県の出張所として知多郡横須賀町に建てられたものです。
明治15年(1882)に、第31番小学鳴尾学校の校舎になりまし た。
その後、昭和45年(1970)名古屋信用農協鳴尾支店・移転後は空家のまま地区所有財産として現存。
正方形の皿形の板を3枚重ねた玄関柱、網代式の玄関天井、ベランダ
風の廊下など、随所に洋風建築のデザインがみられます。
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【地蔵寺】喚続地蔵
地蔵寺の本尊で、8年ごとに開帳されます。
元和元年(1615)に、大阪落城の落武者新藤半兵衛が、石地蔵の霊験を試そうと槍で突いたところ、上下二つに割れ、半兵衛は血を吐いて絶命した、という言い伝えが残っています。
この場所は寺の西側にあり、「血塚畑」と呼ばれています。
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【喚続神社(よびつぎ)】
大永3年(1523)に創建されました。毎年10月に例祭が行われます。
そのとき、布袋、福禄寿、猩猩と呼ばれる大きな人形を見ることができます。
「昔、神社西側の海岸の堤防が何度も決壊したため、伊勢神宮で1万回のお祓いをうけたところ、神徳があり堤防が完成した。
そのことに感謝し、社殿を伊勢神宮に向けて建てた。」という言い伝えが残っています。 寛永9年(1632)8月14日の夜に落下した日本最古の隕石が、社宝として保管してあります。
寛永9年(1632)9月27日(旧暦8月14日)午前0時頃、村瀬六兵衛ら数人の人々が塩を焼いていた時の出来事です。
突然ものすごい音がして、赤熱した隕石が落ちてきたのです。
里人の1人が鉈(なた)を投げつけました。
喚続神社の北隣には、蕎麦の美味しい店「紗羅餐(さらざん」があります。 閑静な住宅地ですから、通な人しか来ませんね。 行ってみる価値は十分あります。
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【福井八左衛門の供養塔 弘心寺】
新田開拓の遺徳をしのび、大正3年に弘心寺の境内に建てられました。
弘心寺は、大正10年に「八左弘法堂」として建立されました。
南野村の庄屋福井八左衛門は、瀬戸内海の製塩業が発達するのを見て、この地方での塩の生産に見切りをつけ、新田開拓に着手しました。
田畑、塩屋を売却して資金を作り、正徳6年(1716)に八左衛門新田を開拓しました。
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【大江川湊跡】(みなとあと)
江戸時代のこの地域は、海と川で現在の地形とはずいぶん違っていたようですね。
「三ッ又」ともいわれ、寛文年間(1670頃)は「万場の渡し」の応援や、津島祭りの車船として20艘の船が出ていたことが、『尾張徇行記』に記されているそうです。近郷の年貢米を藩の倉へ送ったり、鳴海の酒荷(今でも三軒の酒蔵があります)も運搬されていたそうです。また、三重県の多度方面との往来も伝えられており、にぎやかな湊(みなと)であったと思われます。
聞いたお話ですが、大高から熱田の船を呼んだことから「呼続」の地名ができたとか。(ほんまかいな)
オチです。 以上は、私の古くから住んでいる地域の散策でした。
文章は、引用が多くありますが過去には到底いけませんのであしからず。歴史は残したいものですね。
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